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実用英語の運用能力は社会的地位に反比例する

 

 Know the principles of the crafts.

 英語が最も苦手な人は、英語を教える人である。そして実用英語の運用能力は、社会的地位に反比例する。この伝でいけば、中学高校の英語の先生の実用英語は、大学の教授より高い水準にあるといえる。大学で英語を教える教授は、英語を話さなくてもいいから、ボロを見せるリスクは避けられる。従って立場は常に安定している。英語学や翻訳学という専門バカは、対人関係コミュニケーションで生まれることはない(足の引っぱり合いはあるが)。いびり出されることがあっても、誠にされることはまずない。学生が教職員を評価得点するというアメリカ大学型のシステムは、まず日本には導入されまい。

 名門吉岡道場は、宮本武蔵という野武士一人に、叩きのめされた。全員が優等生という組織では、変化に強い体制は保ちがたいのだ。

 日本という社会は、そしてそこに巣喰う大組織は野武士を嫌う。野武士をindividual thinkers とすると、大組織の人間はさしずめgroup thinkers である。

 組織が大きくなればなるほどディベートが嫌われ、風通しが悪くなるのだ。赤信号みんなで渡れば恐くない、という発想をgroupthinking (ワンワードになっている)と呼ぶ。

 これは、欧米人が最も嫌うところだが、日本では、上司の顔をうかがい、空気を読みながら、行動をするgroup thinkersが尊ばれる、それは治世の時の話である。今は違う。乱世になると、組織は大きいがゆえに倒れる。だから組織内部にディベートが必要になってくる。新しいアイディアで勝負する革新的な人間はディベートのできる人材でなくてはならない。

 ディベートのできる人間とは、心が広く(open-minded)、カラッとした性格で、agree to disagree (反対することに合意のできる)のできるスポーツ感覚(sporty)人間だ。科学者カール・セーガンはいろいろな学問分野の人と、しかも食事中でも、ディベート(スポーティーな議論)をした。そして、ますます物知りになった。

 諸職の道を知れ、と武蔵が言う時、スピーチから離れディベートをせよ、と諭しているように思える。

 稀代のカラテ家大山倍達は、『昭和五輪書』第4章でこう解釈している。武士としての社会的機能ばかりでなく、農・工・商などに従事している者たちの機能にまで理解を深め、そこから自らの根拠を学ぶことだ、と。

 この方がわかりやすい。「士」を、英語を武器として道を求める武芸者とすれば、英語教育のカリキュラムを準備するのは「農」を促す農林省と同じ発想の文部省の役目となる。ここに利権が生じる。文部省がバックになる実用英語検定試験というシステムが開発される。独占させてはならぬと、外資系の検定試験が加わり、乱戦模様となる。ナントカ省が後援というカンムリ試験が生まれる。こんな時に、冠のないICEE (Inter Cultural English Exchange)などは、ひもがつかないから、淋しいと人は言う。わからないでもない。なにしろブルース・リーの空手映画「死亡遊戯」からヒントを得、シカゴの取引所からインスピレーションを得て生まれたのだから、寸止めを許さない極真空手を見るような恐怖の念を植え付けるのだろう。

 ICEEの最後のEはexchangeのことだ。このexchangeには、文化交流(cultural exchange)以外に株、債権、先物などの取引所(exchanges)というニュアンスがある。英語の実用能力などは、密室では測れない。しかも、S&D (供給と需要)の均衡が衆目の前で決定されるので、これほど公明正大な検定試験はない。大勢のネイティヴ・ジャッジが参加し、デモンストレーションを行ない、初段以上の有段者による交渉ゲーム、ジャーナリスティック・インタビューは、大勢の観戦者の前で受験者とネイティヴが、真向から対決をするのである。英語だけではなく、人間と人間の心(知・情・意)が衝突する、full-contact sport となるのだ。英語道が武士道の流れを汲むものであれば、このICEEこそは、英語という武器をフルに活用した、知的武道大会になる。これを営むのが、武蔵のいう「工の道」である。このICEEを運用することは、大工が家屋を建てる作業に似ている。

『英語は格闘技』 松本道弘