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バイオックス問題→大手製薬企業の萎縮、FDAに対する批判

 

 2004年9月に、米国のメルクは、前年に世界で25億ドル(3,000億円)売り上げた鎮痛剤バイオックスの販売停止を発表しました。臨床試験でバイオックスを18ヶ月以上服用した被験者では、プラセボに比べて心筋梗塞などの重篤な心疾患のリスクが2倍に高まることが判明したためです。従来の鎮痛剤が胃腸からの出血の副作用があるのに対し、バイオックスはこの副作用が小さいという特徴があります。安全性が高い薬との認識で、リウマチ患者の痛み止めなどに広く使われていました。

 メルクは、このバイオックスを使って、より高用量を、より長期間服用する新たな市場の創出を考えました。それまでの知見から可能性が考えられた大腸がんの予防やアルツハイマー認知症の予防に、バイオックスが効果を果たすかとうかを示す臨床試験を開始したのです。

 くしくも心疾患リスクの上昇を証明することになった臨床試験は、大腸がんの予防効果を図るためのものでした。メルクの株価は発表の翌日27%下落し、この1日での株式時価総額の消失はおよそ268億ドル(3.2兆円)に上りました。

 バイオックスの副作用問題は、メルクの業績や株価に与えた影響が大きかったことは確かですが、業界全体により大きな影を落としたのではないかと思われます。メルクは米国の
製薬企業の中でも最も尊敬される企業の1つです。そして、バイオックスは1990年代の黄金時代を象徴するブロックバスターであり、DTC (direct to consumer : 消費者向け直接広告)が功を奏して大型した成功例と見られていました。それが否定された形です。バイオックスの副作用は社会問題になりました。様々な観点でこれまでの医薬品業界のあり方が問い直されました。

 まず、製薬企業の行いが問われました。バイオックスと心疾患リスクの関係は、実は2000年には指摘されていたことでした。メルクは、副作用を知りながらそれを隠蔽し、企業の利益を優先して販売を続けたと非難されました。バイオックスの副作用被害者による集団訴訟が起こされました。製薬企業はあからさまな利益追求と見られる行為に慎重になり、企梟活動全般が萎縮したと思われます。

 また、製薬企業は、実施した臨床試験のうち都合の良いものだけ発表し、都合の悪い結果は隠蔽しているという批判も強まりました。製薬企業は実施する臨床試験をすべて公開しなければ、一部の一流学術誌は論文として採用しないという議論が起きました。 DTC広告も見直される方向です。米国の製薬企業の業界団体である米国製薬工業協会(PhRMA)は、2005年に新薬発売後のDTC広告を一定期間自粛するガイドラインを発表しました。

 FDAの仕事振りにも批判が集まりました。ユーザー・フィー制度の下、活動予算の多くを製薬企業に依存し、薬の副作用への対応が甘かったという非難が巻き起こりました。多くの薬は承認前に一定の臨床試験で安全性・有効性が検証されます。しかし、不特定多数の患者が長期に服用したときに初めてわかってくる副作用もあります。

 バイオックスのケースでも、18ヶ月の心疾患の発生率は、服用しなくても0.75%あるのに対し、バイオックス服用者では同1.5%に上昇するということでした。両者の差異は服用者全体の1%未満です。こうした副作用は、きちんと調べなければ表に出ないうえ、科学的な証明も難しいことから、製薬企業の主張に押し切られてうやむやになりがちだったのです。

 しかし、バイオックスをきっかけに、このレベルの副作用を持つ薬なら他にもあるのではないかと、疑わしい薬のリストなどが報道されるようになります。バイオックスと同系統の薬では、ファイザーのベクストラもバイオックスの半年後の2005年4月に副作用問題で販売停止になりました。やはり同系統のファイザーのセレブレックスはかろうじて販売停止を免れましたが、FDAは販売継続の可否を論じる特別の諮問委員会まで設けました。男性機能改善薬バイアグラに至っては、10万人に1人程度発生する失明に関して、その原因がバイアグラであるかどうかも不明なまま、薬の添付文書に警告文が載せられました。

 既存製品の副作用だけでなく、新薬の承認においてもFDAは慎重さを欠いていたのではないかとの声も強まりました。実際1997年以降、米国で副作用によって販売停止に至った医薬品は20品目を超えます。毎年複数の品目が副作用で販売停止になるペースです。ユーザー・フィー制度やDTCの規制緩和による薬の濫用によって副作用被害が増えているという厳しい意見もあります。

 世論のプレッシャーを受けて、FDAの新薬承認のスタンスは慎重になったのではないかと思われます。それまでは単にプラセボに優れば承認されたのが、薬の持つベネフィットがリスクを上回るかどうかという視点が新薬承認の判断に用いられる傾向が強まりました。他の薬とそれほど違いの少ない薬はベネフィットが小さいと評価されてしまいます。

 一方、大勢の人が長期間服用する薬は、副作用のリスクを拭い去るのが難しいと言えます。バイオックスの例にあった服用者全体の1%未満の副作用は、ないことを示すのは困難です。

 では、他の薬とそれほど違いの少ない薬、大勢の人が長期間服用する薬、とはどのような薬でしょうか。それこそ、従来のブロックバスターの特徴と言えます。従来型のブロックバスターにとって、FDAがベネフィットとリスクを天秤にかけた場合、実際にはリスクの比重が圧倒的に高くなってしまいました。

 ブリストル・マイヤーズスクイブの糖尿病治療薬パーグルバはブロックバスター化か期待された新薬候補でしたが、2005年にFDAは承認を見送る判断を下しました。パーグルバにはすでに類似の製品が2品販売されていました。他方、臨床試験では服用者の0.34%で心不全が発症するとのデータが出ました。ベネフィットとリスクを勘案すると、承認できないという結論になりました。これは従来の基準よりも厳しい判断と言えます。

 同様の判断基準によると、従来のブロックバスターのタイプの薬の承認見通しは著しく厳しくなるでしょう。捉え方にもよりますが、これはブロックバスターの狙い撃ちとも言えます。もはやブロックバスターは世に出ないという悲観的観測も一部に出始めています。