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日本語の否定表現について

 


 「行く」に対して、「行かない」、「よい」に対して「よくない」を普通、否定表現という。「否定」というと、ある人がそのことをちがうと言うことで、その人の主観的な精神活動である。が、実際は「よくない」の意味は、「よさが否定される状態にある」(属性をもっている)という意味で、客観的な状態・属性を表わす言葉である。「行かない」もこれに準ずる。筆者はこういうことから「行かない」「よくない」を〈否定表現〉と呼ぶことにはちょっと抵抗を感じるが、今は、一般の呼び方に従って話を進める。

  さて日本語の否定表現は、他の言語に比べて、何より単調である。

 たとえば英語では、否定を表わす形は豊富で、no、 not、 none、 never、 neither、 norからはじまって、little、few、 hardly、 seldom、withou、unless……など、多くの否定形があるのに、日本語では、動詞の否定形は「行かない」、形容詞や助動詞「だ」の否定形は「よくない」「山で(は)ない」で、みな「-ない」という形だ。しいて言えば、「いえ」「なに」「ものか」「か」などが否定に使われるくらいである。「決して」「ちっとも」のような、否定の気持を帯びた副詞はあるが、「決して書く」では、打消しの意味にはならない。「決して書かない」と言わなければならない。つまり、「決して」「ちっとも」の類は、否定の語句に伴って用いられる語句というに過ぎず、否定の意味はあくまでも、「-ない」の形にある。

 全体が一語に 次に日本語の否定形について注意すべきは、動詞についた場合、全体が一語になっているということである。「書く」に対して「書かない」、「降る」に対して「降らない」がこれで、「書写が行われない」「降雨が行われない」の意味をもつ。学校文法で、便宜上、書力十ナイと分けて二語とするが、アクセント形式から言っても、中間に他の語がとびこまない点から言っても、全体は一語である。

 ドラヴィダ諳語は、否定動詞をもつ言語として知られている(北村甫編『世界の言語』)。また、アイルランド語やリトワニア語の動詞が否定形をもっているという(ヴァンドリェス『言語学概論』)。しかし、一般的ではなさそうだ。多くの言語では、否定の意味は否定の副詞というものがあって、それで表わす。英語・ドイツ語・フランス語然り、東洋でも中国語然り、アルタイ諸語然りである。多くの場合に、日本語と似た性格をもっている朝鮮語では、aniという副詞があって、これが動詞につく。

  ani hada(しない)

 上代の日本語には、「な書き」の「な」のように、否定(命令の意をふくめているが)の意味の副詞が一つだけあったが、古代にはすでに、「な書きそ」と、「-そ」の上の語についてあとに来る打消しを予告する助詞と化し、姿を消すに至った。

 日本語の否定の意味は、動詞を言ったその後に来る。日本語では一つのセンテンスで動詞が最後に来るので、日本語は最後のところまで聞かなければ肯定か否定か理解できず、苦しい。

 よくテレビなどで見るゲームに、出場者に赤い旗と白い旗を左右の手に持たせ、指揮者が「白あげて、赤あげないで、白下げない」などと言って相手を混乱させるのがあるが、これは日本語でやるからかもしろいので、否定の意味が先にわかる言語では意味がない。

 英語などを学んで驚くことは、

  No man lives.

のような、否定的なものがセンテンスの主語になることだ。これは、このまま日本語に翻訳することはちょっとできない。中国語には「無人止」という言い方があって、これは英語そのままの考え方のように見えるが、「人ノ止マルモノ無シ」という発想らしい(楳垣実『ばらとさくら』)。 

 部分を打消す ドイツ語を見て羨ましく思う点は、センテンスを構成しているどの単語でも。
 
 それを打消すためにnichtという副詞をそばに置くことができる点てある。Ich……とはじまるセンテンスのichだけはちょっと否定しにくいが、普通の名詞が頭に来た場合には、keinを使って否定できる。それが日本語では、否定の形に出来るのは文末の動詞だけなので、それを否定形にした場合、前のどの語を否定したのかはっきりしない。北原保雄が例にあげた、

  車は急にとまれない

の「ない」は、「急に」を否定しているともとれ、「とまれる」を否定しているともとれるところから話題になった。

 中国の古典の、

  身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也

の「不敢毀傷」は、「敢不毀傷」と同じになってしまい、

  アエテキショーセズ

としか読めないのは、日本語の欠陥である。

 われわれの先輩はそれでも何とかして解決しようと手を打った。それは否定すべき語句に、助詞「は」「しも」「と」をつけることである。たとえば、

  伯楽は常には有らず

と言えば、「-ず」は「常に」を打消していて、

  常にいるとは限らない、いないこともある

の意である。「常に有らず」(=いつもいない)とはちがう。この「は」は現代でも応用が広く、

 「全部は食べなかった」と言えば、少し残したことになる。前の「車は急に……」の例ならば、

 「車は急にはとまれない」となる。

  『徒然草』に「死は前よりしも来らず」というセンテンスがあるが、「死は後からも襲ってくるかもしれない」の意であり、「しも」は前の句を打消す。いま多く使われる「必ずしも」の「しも」の語源はこれである。「と」は「二度と来なかった」のように使うが、例は少ない。

 「しも」と「と」は現在自由には使えなくなってしまった。

 終戦直後ごろ、天皇陛下マッカーサー元帥とが並んで立っている写真が新聞に出たことがあった。重要な会談をした記念だったのだろう。その時、マッカーサーはネクタイを締めないというラフな恰好だった。そうして、そのことの説明として、新聞に「マッカーサー天皇に会うためにネクタイを締めなかった」と出た。

 これは誤解される文で、何かマッカーサーは、天皇に逢うために、わざわざネクタイをはずしたようにとられ、非難の声があがった。しかし、事実はそうではなくて、堅苦しくなるのをさけて、ネクタイを締めずにふだんのままで出かけて行ったという意味だということだった。そうすると、この文はどう書いたらいいか。

  天皇に会うためといって、ネクタイを締めることはしなかった。

であろうか。「といって」も、前の語句を打消す形である。

 

     否定表現のついでに〈二重否定表現〉について二言。

 二重否定 次のようなのは、よく日本語の文章の中に見られる形であるが、これらは否定の否定であり、意味は肯定になっているから、文句はない。

  行かなければならない
  来ないんじゃないか
  ……の恐れなしとしない

 言語によっては、二重の否定をして、それでやっぱり否定だという表現がある。スペイン語や(ンガリー語が有名で、たとえばスペイン語のnadieは、英語のnobodyに相当する単語のはずであるが、ほかにもう一つ否定を表わす単語をいっしょに使わなければ、これだけでは否定の意味にならないという。

 しかしそういう二重否定の文章は、大家でも書いてしまうことで、イェスペルセンは、『文法の原理』の中で、チョーサーの書いたものから例を拾ってきている。

 日本語でもこのようなことがないわけではなく、たとえば、近松門左衛門という人はのんきな人で、

  二夜三日の御祈り、などか納受なからざらん。(都の富士)などとやっている。ここは「なからん」でよかったところで、反対の意味になってしまった。

  雪に変わりはないじゃなし

という「お座敷小唄」の一節は、その末流である。

『日本語』 金田一春彦