医薬翻訳サービス

薬理学、生化学、統計学に精通した翻訳士が対応いたします

外国語における動詞の人称変化

 

     日本の動詞には人称の区別がない。たとえば、「愛する」ということは、話し手の動作としても、相手の動作としても、第三者の動作としても言える。われわれは何とも思わないが、これは、ヨーロッパ人などにはきわめて珍しい性格らしい。

 ドイツ語では、lieben(愛する)は、私(ich)の時はliebe、相手(du)の時はliebst、第三者(erまたはsie)の時はer (sie) liebtと変わり、もしそれぞれが複数ならばまた変わる。世界の言語には、こういう方式の方がふつうで、インド-ヨーロッパ言語は全部(英語、それに次いでフランス語の話し言葉には、かなり特徴か少ないが、それでもないわけではない)、ハンガリー語のようなウラル語にもあり、アルタイ語でも、トルコ語にはあり、モンゴル語も方言によってはそのちがいがあり、アフリカの諸語、アメリカ-インディアッの諸語も区別があるのが一般らしい。名詞にやかましい人称の区別のあるアイヌ語には、もちろん区別がある。区別がないのは、中国語・朝鮮語タイ語・ヴェトナム語・ビルマ語・インドネシア語などの東南アジアの諸言語などに多く見られる性格である。

 M・ペイは日本語を評して。

  Most striking is japanese insouciance with regard to grammatical person.と言っている。日本語のどの点より、人称に無頓着なのを驚いているところを見ると、動詞の 人称による変化のないことは、よほど珍しいものと見える。

 つまり日本人はすべての人称を抽象した動作を考え、日本語の動詞は原則としてそれを表わす形である。

  秋冬風全く凪ぎ、天に一片の雲なき夕べ、立って、伊豆の山に落つる日を望むに、世にか
  かる平和のまた多かるべしとも思われず。

 名文のほまれ高い徳富置花の『自然と人生』の中の「相模灘の落日」という文章の一節であるが、この「望む」は、私であっても、あなたであっても、誰であってもいい「望む」であって、この文章は最後まで読んでも、その精神で書かれている。まことに東洋的な自由な文章表現の一つである。
  花散るや伽藍のくるる落とし行く  凡兆
  雲の峰水なき川を渡りけり     子規

 いずれも主語は私、彼、彼らを超越している。

 ただし、日本語が主語を言わないために、はっきりしなくなる場合もなくはない。

 いたずら小僧が二人、柿の実を取りに行った。大きい方が木に登る役をし、小さい方が下で拾う役をしていたところが、小さい方が過ってドブヘ落ちてしまった。木の上を仰いで「落ちたよウ」と言ったら、木の上の子は「落ちたら拾えよウ」と言った。下の子が、「ドブヘ落ちたんだよウ」と言ったら、上の子は「ドブヘ落ちたのは捨てておけよウ」と言ったという。こういう行きちがいは日本語でこそ起こりうるが、第一人称が落ちたのと、第三人称が落ちたのをやかましく区別する多くの外国語では、思いもよらないことであろう。

 なお、英語はもちろんのこと、フランス語・ドイツ語では、動詞が人称による変化をしても、その上に「私か」とか「あなたが」という代名詞をつけて、人称のちがいを強く指示している。しかし、ラテン語では人称変化をした動詞だけを示して、「私」とか「あなた」とかいう主語を別に出すことはしない。イタリア語々スペイン語はこの行き方を踏襲している。動詞が人称変化をする以上は、その方が建てまえのようだ。

     人称変化について注意すべきことは、言語によっては、動詞がその主格による変化のほかに、対格による変化をすることである。ウラル諸言語はその性格をもっているが、たとえばハンガリー語では、主格と対格と両方をとる動詞の場合、

  私は待つ varom
  お前は彼を待つ varod
  彼は彼を待つ varja
  私はお前を待つ varlak
  彼はお前を待つteged

のように変化する(『世界言語概説』下、徳永康元)。

 これがさらにアイヌ語になると、「それについて」という格のものまで、動詞に変化を与えるから、動詞はそういうものを抱き合わせて長大な形になる。次の例のIのところは意味の切れ目を表わしただけで、切って言うわけではない。

   金田一京助アイヌ語を、一種の抱合語と呼んだゆえんだ。代表的な抱合語の例は、アメリカ-インディアンの言語にあって、サピアの『言語』によればフォックス語では、

  eh-kiwi-n-a-m-oht-ati-wa-ch

と言うと、

  それから彼らは一緒になって(彼を)彼らのもとからずっと追払っていたという翻訳になるという。これも、-は意味の切れ目で、切って発音するわけではない。

      ヨーロッパ語のように人称の変化があると、主格が二つの場合は、共通に使える動詞がなくて困る場合がある。たとえば、日本語では、

       これは私かあなたが間違えたんでしょう

と言えるが、英語で言おうとすると、

  Either you or I ( ) wrong.

の( )のところに入れる動詞がない。youならばareであり、Iならばamであるが、you or Iとあっては……。一般にはあとのIをたてて、Either you or I am wrong.でいいとしているが、イェスペルセンのような文法学者になると、もう一つ動詞を使って次のように言うのが正しいという(『言語』)。これは、動詞が人称変化すればこそのなやみである。

  Either I am wrong or you are.

 それにつけても、日本語をはじめ朝鮮語・中国語から東南アジア諸国の言語が、人称の使い分けの悩みから解放されている気分は、まことに爽快である。

      とはいうものの、ただ一つ日本語にも、人称の変化をもつ動詞・補助動詞がある。

 授与を意味する「やる」「あげる」対「くれる」「下

      さる」がそれだ。

  「私かあなたにあげる」「あなたが私にくれる」と、人称によってちがった動詞を区別し、

 「あなたが私にやる」「私かあなたにくれる」とは決して言わないから、人称変化と言わなければいけない。授与に関する動詞に限り、人称変化を表わすのは、日本人がいかに物の授与を重んじているかを考えさせられるということは前に述べた。

 ところで注意すべきことは、この授与を表わす動詞の変化は、一、二、三人称の区別によるものではなく、自分と他人との区別によるものであること、もっと重要なことは、主格によるのではなくて、対格ないしは与格・奪格によることである。

 日本語の文法では、人称によって使う言葉が違うものの例として、心理状態を表わすおもしろい言い方がある。たとえば「悲しい」と言う単語は、英語では「私は」のときはI am sad.「あなたは」のときはYou are sad.「彼は」のときもHe is sad.と、みんな同じ形で言うことができる。ところが日本語はそうはいかない。「私は悲しい」はいい。しかし、「あなたは悲しい」とか「あの人は悲しい」というのはヘンだ。他人の気持はわからないという論理である。「あなたは悲しい?」と尋ねるならいい。断定の時はあとに言葉をつけて、「あの人は悲しいらしい」「あの人は悲しいのだ」と言ったりする。それならばいいというきまりがある。恐らく英語のHe is sad.を翻訳すると、

  彼は悲しいのだ

になるであろう。日本語はどうしてなかなか、精密である。