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大勢のネイティブの前で話すとき

 

私は、大勢のネイティヴの前で話をするのには慣れている。

 宮本武蔵の『五輪書』というバイブルの教えさえ学んでおけば恐れるものはない、という心のやすらぎのようなものがあるからだろう。

 ただ一度だけ、恐しい敵に囲まれたことがある。アメリカで最も多くの政治家を出したと言われるプリンストン大学ディベート・クラブの連中を前に、腹芸論をぶってくれという依頼があった時だ。

 かつて英語道初段の頃、神戸の教会でクリスチャンを前にキリスト教批判をぶちあげたことがあったが、あの頃は、私の懐刀である神という必殺技があったからできたのだ。禅は、とりわけ公案(zen puzzle)は、ロジックの嘘を見事に破る。

 しかし、今私の前にいる政治家志望の大学ディペーターの前で、ディベートの不毛性を説くために、腹芸(stomach talk)という前論理(プリロジック)の知恵を説くのだ。

 禅も、仏教も神道も、何も知らない連中だ。どうやって、多敵(多くの敵)を斬るのか。いつもなら、その場でやるのだが、この時ばかりは準備が要ると思い、日本を発つ前に水戸納豆を一巻き用意しておいた。

 ニューヨークに着いて間もなく講演であったので、時差ボケで頭がクラクラしている。英語もスラスラ出るわけがない。そこで「腹芸に対して反論もあろうが、その前にまず、日本にはなぜ、ザ・パラケイが存在し、機能するのか、その精神風土(ethos)について述べてみる。日本の風土はきわめて粘着性が高く、筆舌しがたいので、視覚的(ヴイジュアリー)に説明したい、ついてはこの納豆を食し、まず日本を擬似体験して頂きたい」と申し入れた。

 あのネバネバの納豆のワラを解き、学生の問で「一口でもいいから、口に入れてみよ」と命令する。

 暫く沈黙を続ける。彼らのゆがんだ顔がいまでも思い出される。

 「そうだ。その糸か見えるか。1本じゃない。多くの糸、それを日本では筋という。論理的なスジはlogicだが、論理だけでは日本の社会は動かない。倫理的な(ethical)スジ、道徳的な(moral)スジがある。

 欧米人は、それをprincipleという。 a person of principleは、節操のある人のことだ。だがa person of many principles と、スジを複数にすると、あなたがたはもう信用しなくなる。その人が見えなくなるからだ。だから、あなたがたは宗教は何かと聞く。日本人は宗教では動かない。道に外れることだけは許されない。道に外れるーそれは宗教的なプリンシプルを捨てることよりも罪が深い。

 この一粒の大豆を見よ。あなたがたの国から輸入しているこれは、大豆かもしれないが、これをわれわれは納豆と呼ぶ。大豆には人称はなく数えられない。人は単数であって、同時に複数なのだ。納豆は複数で考える。We Natto people think in terms of "We.” ところがあなたがたの、I'm OK, you're OK. という国では、個を中心に考える。You think in terms of “I.”

 納豆一人一人に顔があると信じてつきあっていても、TPOが変れば別人になることもある。納豆を動かすのは大豆ではない。ねばねばした糸だ。これを、われわれは「空気」(the kuki)あるいは間(the ma)あるいは「縁」(the en)と呼ぶ。精神風土(ethos)から生じた対人関係は、このようなsticky (ネバネバした)な状況で捉えるべきである。そのような湿った情緒の社会で、乾いた知的なディベート風のコミュニケーションができるわけがない。

 このナットウ社会固有のコミュニケーション・スタイルを、腹芸(ザ・ハラケイ)と呼ぶのだ。」

 ここまでのところで質問は、と一堂に目をやる。

 そこから、ハラゲイの5W1Hの解説に入った。なんとなく納得したようだが、アメリカ人にディベートをやめて腹芸をやれ、という私の攻撃を脅威と受けとったのか、一人のディベーターが猛然と挑んできた。そのスピードの早いこと。5、6点に論点を絞って、猛烈に反撃してきたので、余興になってしまった。答えは忘れたが、かなり迫力のある突っ込みであった。ディベート・クラブのチーフが、「先生、気を悪くしないで下さい。やつはゲーム感覚で反論したまでですから」と詫びていたが、結構、スポーツ感覚で論じることができ、楽しかった。

 議論でムキになる人のことを不粋というが、英語でいえば、a poor sport か、unsportingと表現するより他はない。クールに議論をするのが「粋」なら、英訳すれば、for the good of the sport ということになる。野球を楽しむためというのが原点なら、for the good of the gameとなる。ジャンケンで負けてもムキにならないだろう。それが、ゲームの精神である。

 私か水戸納豆で奇をてらったのは、武蔵の「多敵のくらい」の応用である。

 く多敵のくらゐといふは、一身にして大勢とたゝかふ時の事也。我刀かわきざしをぬきて、左右へひろく、太刀を横にすてゝかまゆる也。〉

 太刀と脇差、英語と日本語、英語文化(キリスト教)と日本語文化(禅)という二刀の哲学で闘う場合、左右にひろく刀を横にひろげて構えるに限る。敵が四方からかかってきても、一方へ一方へと追いまわす呼吸で闘う。敵を一列につなげて追いまわさず、こちらが有利になる。要するに敵を重ねるということは、敵の芸道の哲学や原理を見極めておくことだ。これは、リサーチの段階で決まる。

『英語は格闘技』 松本道弘